登山

週末、家族で登山に行ってきた。朝4時に車で出発し、自宅から270km、高速道路を3時間以上走って目的地の駐車場に到着。8時過ぎに登り始めて11時半頃に山頂に到着。12時過ぎに下山開始し、14時に駐車場に到着。温泉で汗を流して、そこからまた高速道路で帰路に着き、途中サービスエリアで夕食を食べ、自宅に着いたら21時前だった。

我が家の登山はいつもこのような感じで、朝早くから夜遅くまで全力疾走の一日となる。

自然の中に身を置くと、自分が生き物としての人間であること、生きているということを強く感じることができる。この道で合っているか、天気に変化はないか、体の水分や塩分、呼吸は大丈夫か、日常生活において意識する必要がなかったことを意識し、生に対する思いが強くなる気がする。

今回の登山も、とても楽しかった。

楽しかったのだけれど、また一つ終わってしまったという、何となく寂しい感情が心の中にある。

楽しい時間が終わり、まだ身体の疲れも取れていない中、今日から仕事が始まる。

週末を終えて新しい一週間と向き合うとき、どうすれば前向きに考え動き出すことができるだろう。私は今、これから始まる仕事という名の一週間を楽しみにしてはいない。

何とかいつも通り起きて、必要な家事を終え、いつもの通勤電車に乗ることはできた。

ただ、とても寂しい感覚のままだ。

仕事に対して楽しみに感じられる何かが、やはり何か必要なのだろうか。

一朝一夕②

一朝一夕では成せないことを、どうやって継続し積み上げていくか。

選択を迫られ、それしか道がないと悟ったときには動き出せるということを前回書いた。

物事を継続して積み上げていく形として、二つ目に思い浮かぶのは、自身の中で完全に習慣化されたものだ。これらの多くも、やりたいことというよりはやらなければならないことなのだけれど、その行動を起こすことは完全に生活の一部になっている。

具体的には、洗面や掃除、そして、私の場合だと食事の用意が該当する。

側から見たら結構しんどいタイムテーブルで家事をこなしており、たまにしんどいと感じることもあるが、それらに取り組んでいる瞬間は結構集中していて、心も半分「無」になっている。

何をやるべきか完璧にわかっていて、それをやった結果どうなるのかもまたわかっている。家が綺麗になれば自身は快適になり家族も喜び、美味しい食事を用意すれば家族が喜んで食べてくれる。そんな日々の小さな幸せのための行動が積み上がった結果として、自分にとって居心地のよい場所が出来上がっていく。

この継続の形はある意味理想の形なのかもしれない。

究極の選択を迫られたもの、日々やらなければならないことでかつ小さな喜びを感じられるものについて書いてきたけれど、本当に難しいのは、自分の考える理想があり、それに辿りつくために継続した積み上げが必要なものではないかと思う。私はこれが苦手なのなろう。

これについてはまた次回。今日は金曜日。最後の仕事に向かう。

一朝一夕①

お酒を飲むのをやめてから2ヶ月以上が経過した。仕事の懇親会で二度ほど飲むことはあったが、自宅での晩酌は完全にゼロになっている。

ノンアルコール飲料はビール代わりに毎日2本ほど飲んでいるが、それで十分満足できている。

体調にも変化が見られる。少しずつだが体重が落ちてきており、睡眠の質がよくなった。お酒をやめると決めてから二週間ほどはむしろ体調が悪くなったように感じたが、それを越えてから非常に楽になったようだ。日中の集中力もあり、色々なことをしっかり進められている。

お酒は美味しく、辛いときに拠り所にもなってくれるので、人生において必要なものなのかもしれない。ただ、今の自分にとっては避けた方が良いものと捉えている。

人生に悩み、何か行動を起こさなければと焦っているとき、お酒に逃げて心身を荒廃させるのか、心身をちゃんと整えて、自身の未来を描くことに全力投球するのか。どちらに未来があるかは明白だ。

しかし、忘れてはならないことがある。何かを成し遂げるためには、自分のイメージに近づくためには多くのプロセスがあり、継続しなければならないことがあり、とにかく時間を要する。一朝一夕ではどうにもならないことばかりだ。

どうすれば、迷うことなく、粘り強く物事を継続できるだろうか?

大学生の頃、専攻していた外国語の授業についていけず、引きこもった経験がある。毎日、何とか授業に向かわねば、明日こそは予習と復讐を完璧にこなさねば、一刻も早く理解している状況に持っていかなければという思いに駆り立てられては苦しくなり、結局は体調不良という言い訳を盾にして休んだ。休めば休むほど、自分が「こうあるべき」と考えていた姿から遠ざかっていった。この時、私はお酒に逃げた。その結果、食事の量も増え、体重は90kgを越えた。心も体も最悪の状態に陥ったと言える。

半年以上の間引きこもった結果、留年が確定し、私は大きな選択を迫られた。退学するか、一つ下の学年の人に混ざって、もう一度頑張るか。

なぜあの時「もう一度頑張る」という選択をとれたのか。それはきっと、それ以外に良い方法が思い浮かばなかったからだろう。心も体も辛かったが、退学の先に明るい未来はないと、あるかもしれないが自分は歩けないと思った。留年生として恥ずかしい思いをしてでも、歯を食いしばって自分にできることを頑張るしか、生きる道はないと考えた。

成績は芳しくないままだったが、何とか踏み止まることができ、今に至っている。

大学を卒業したことは、自分にとっては、何かを継続して成し遂げたという位置付けになるのだろう。それがやりたいことだったかと問われると決してそうではないのかもしれないが、選択を迫られ、本当にそうするしかないと思えたら、人は何とか頑張るのだろう。

物事をどうすれば継続できるかについて、まだいくつか書きたいことがあるので、続きはまた後日。今日も仕事に向かう。

老い

実家の父が癌治療のため長期入院している。命に別状はなく、化学療法のため投薬治療で2週間程度の入院が複数回続いている。

入院中、父の唯一の?楽しみはiPadで、毎日動画などを楽しんでいるようだ。

一つ問題があった。病院内のWiFiを使用するのにソーシャルアカウントによる認証が必要で、QRコードを読み込んだりパスワードを入力したりするのが父にとっては敷居の高いものだったため一人では接続できず、ずっと携帯電話の通信を使っていた。

昨日、通信量の上限にまもなく到達することがわかったのだが、遠方でお見舞いに行けるところではないため通信手段を手配する術がなく、半月ほど低速接続で乗り切るしかないという状況に陥った。

院内WiFiに何とか繋ぐしかないので、FACE TIMEを使用して、父と一緒に画面を見ながら認証手続きを行なった。

1時間ほどかかって、ようやく接続まで辿り着いた…。会話している中で父の声がだんだん大きくなってしまい、看護師さんに注意されてしまった。

無事繋がったのは本当に良かったのだけれど、僕らにとって当たり前のことが、一つ上の世代にとってはとても難しいのとなのだと痛感した。手取り足取り説明しても「どうすりゃええんじゃ…」と苦戦する父が、とても弱い存在に感じられた。

母が昨年70代前半なのに他界し、その時から老いと死が自分にとって近いものになった。そして今、父もまた少しずつ老いている。そう遠くはないいつか、手も声も届かぬところへ行く。

父が生きているうちに、自分の家族と一緒に旅行に行きたいと考えている。本当は今年の夏に行くはずだったが、入院が必要になってしまって延期せざるを得なかった。

自分には、あとどれだけの時間が残されているのだろうか。

父との時間、妻との時間、子供達が子供達のままでいる時間、そのどれもが、実はそれほど多くはないのかもしれない。

今目の前にある、一緒に過ごせる時間を大切しなければならない。

戻れない人生?

40代に入って人生の踊場に着いたように感じたとき、これまでの自分の生き方、歩いてきた道を振り返ることが増えた。

できたこと、できなかったこと、良かったこと、悪かったこと、その全てが過去のものであり、もう一度その時に戻ってやり直すことができないものなのだと強く認識するのだ。

できたこと、良かったことについて、自身に訪れた心と体の変化から「あの時と同じことはもうできない…」という喪失感に近いものが押し寄せてくる。

その時、その瞬間にしか味わえなかったものはあまりにも多く、楽しく幸せな記憶が手の届かぬところでキラキラと輝いている。どんなに望んでも、同じ体験はできない。決して戻れない。

できなかったこと、悪かったことについて、ある種の後悔の念に苛まれる人もいるのだろう。自分の場合、そういったものはあまりなく、悪かったことは「うまく乗り切れた結果として今があり良かった」と思えるし、できなかったことについても「そのときは他のことで精一杯だった。どう頑張ってもできなかった。」と感じる。

色々な過去の結果として存在している今の自分をどう受け止め、この先を道をどのように思い描き、歩いて行けばよいのだろうか。

今がどんな状況であるとしても、過去には決して戻れない。変えられるのは今この瞬間と未来だけである。

そんなことはわかっている。わかっているけれど、やはり改めて認識しなければならない。自身の未来をどうするかだけを考える必要がある。

40代になり、無理もできなくなってきた今の自分、嫌なものや苦手なものはやはり変えられない今の自分にできることは一体何か?

自分は誰を愛し、その人たちのために何ができるのか?自分は何が好きで何が得意なのか、そしてそれはなぜなのか?

自分はどうありたいのか?どう生きたいのか?

きっと、すぐに答えは出ない。日々考えながら、気付きながら、少しずつ答えに近づいていく。60歳までこのブログが続いていたら、そのとき、どれくらい答えが見えたかを書きたい。

楽しい仕事?

仕事とは楽しいものなのか?

これまで20年くらい働いてきたが、仕事は楽しいものなのか?と問われると、素直に楽しいとは答えられない。

思うようにいかないことや、嫌な思いをすることか多々あるし、面白いとは決して感じられないような作業もする必要がある。

「本当にやりたいと思ったことをやるべきだ」と謳われている書籍はたくさんあるが、いつか自分もそのような選択を思い切ってする日が来るのだろうか。

今、自分がやっている仕事は決してやりたいことではないのかもしれない。

ただ、最近、この「やりたいこと」についてちよっとした悟りというか、世の中はそういう仕組みで回っているのではと感じることがある。

これはまだ仮説で、自分自身それが答えだという確信はないのだけれど、感じているのは次のようなことだ。

一つ目は、自分のことだけを考えて思い描いた未来は何となくしんどいということ。

スキルアップ、快適な仕事環境、収入アップ、生活の質の向上、それらの目的を自身の幸福感の向上のために目指すと、なぜかうまくいかない。

自分にとってプラスにならないこと、面倒なこと、不要なことを回避したくなるのだけれど、仕事をしているとそういった類の用事の方が多いのだ。

逆に、お客様や部下、家族がハッピーになるように全力投球すると、色々なことが良い形で回り始め、結果として周囲からの感謝や評価がついてくる。面倒なことも、自分だけでは解決が難しいことも、不思議と何とかなり、ゴールに向かって進んでいく。

ここで重要なのは、何が相手にとってハッピーなのかを自分の頭でちゃんと考え、ある種の信念を持って動くことなのだろう。相手の顔色を伺い、喜ぶことをやる、求められたことをやるのとは違う。

そういうスタンスで仕事をしていると「自分のやりたいこと」の真の姿が見えてくるのかもしれないが、自分はまだそこには辿り着いていない。

二つ目は、いつまでも指示を受ける側でいるのは自分にとってはしんどいということ。

世代は常に移ろい変わっていく。新人研修で自分が指導した社員がいつの間にか成長しマネージャーグラスにまでなっている。一部の後輩は私を追い抜いて昇進してしまった。

組織に属するのであれば、そこには必ず階層と評価が存在する。年功序列の風土が残っている組織もまだ存在はするのだろうけれど、多くの企業においては年齢とそれに見合った経験・役割・収入が定義されており、この定義にうまくはまらない人材は組織の中では徐々に機能しなくなり、最悪リストラの対象にもなるだろう。

高い評価や高収入を望むというより、40を超えた自分が20代、30代の若手と同じことをしていることに違和感があり「若手、他の人でもできることならば、自分はそれをやるべきではなく、然るべき人に渡すべきだ」と感じるようになった。自分にとって楽しいことならばそんなことを考える必要は全くないのだろうけれど、周囲をハッピーにするということに主眼を置くならば、自分を最大限に活かせる形は何かを考え、自分にしかできない何かを見つけられるなら、それが難しいことでも向かっていくことが必要なのかもしれない。

三つ目は体調だ。

40代に入って、自身の心と体の変化を顕著に感じるようになった。一言でいうならば、色々と無理がきかなくなった。身体的には、体が少し疲れやすくなっており、集中力や記憶力が少しずう低下してきていると感じる。睡眠時間をしっかり確保しないと翌日のパフォーマンスが著しく低下する…。精神的には、自分にとって苦手なこと、嫌なことと敢えて対峙するべきではないと感じるようになってきている。周囲からどう思われているかを気にするべきではなく、自分はどう考えるのか、どうしたいのか、どうありたいのかを突き詰め、自分の信念に基づいた行動をしたいと強く感じる。

まだ答えには辿り着けていないし、ひょっとしたら永遠に辿りつけないのかもしれないけれど、そんなことを考えながら、今日も山手線で仕事に向かう。

楽しむための努力

40歳を過ぎたあたりから、これまで楽しいと感じていたことがそのように感じられなくなるという状態に陥っている。

良くも悪くも色々なことを一通り体験した結果として、何となく次の展開が想像できてしまうようになったのたろうと思う。

休日もやることに追われる中で自分の時間は限られており、日々の疲れの蓄積もあって、週末に何かに取り組むことが面倒になり、気がつくと必要な家事で半日使って残りの半日をグダグダ過ごして日曜日が終わるのだ。

この状態は何とかならないか、何か楽しいことはないのかと色々考えてはみるものの、沙あまだ解決にはいたっていない。

大学生の頃はレンタルビデオ屋で新作が出るのを楽しみにしていたし、社会人なりたての頃は今の妻との毎週末のデートを楽しみにしていたし、結婚して子供が産まれてからは家族で週末どこへ行くかにワクワクしていた。

しかし、気がつくと、その「楽しみ」に向かう内なるエネルギーが少しずつ弱くなってきている。

これが歳を重ねた結果として訪れた自然なことであるのは間違いなさそうだ。

まずはこの状態を素直に受け入れて、自分は何に楽しみを感じるのかに耳を傾けてみようと思う。

無理して楽しむことを目標とする必要はないのだろうけれど、何となく「かからなくてもよいブレーキがかかっている」ような気もする。

冒頭で「何となく次の展開が想像できてしまう」と書いたのだけれど、何をやってみようか?とうしようか?と考えはじめたとき、すぐに次のようなことが頭に浮かぶ。

・準備がとれだけ大変か

・それをやることによって何が得られるか

・どのようなリスクがあるか

・結局、どれだけの時間のエネルギーがかかるか、その時間とエネルギーを今の自分は捻出できるか

上記の4点を考えた結果、だったら別に無理してやらなくても良いのでは…という結論にいたっている。

考えなくてもよいことを考えた結果として、新しい何かを得る機会を失っていらるとしたら、それはもったいない気がする。

もう少しテキトーでよいのかもな。

お酒をやめること

人生がうまくいかなくなったとき、お酒に頼る人は少なくないのではと思う。

お酒を飲むと、その時間だけは頭の中にある悩みや不安が認識されなくなり、少し気分が良くなる。この時間はお酒を飲んでいる数時間は継続される。しかし、悩みや不安そのものが消え去ったわけではない。アルコールによって感覚が麻痺しているだけだ。ある意味麻薬に近いものなのかもしれない。

私自身、仕事がしんどくなるのと並行してお酒の量が増えていった。夜10時に帰宅してから350ml缶のビール、ハイボール、チューハイを1本ずつの計3本をほぼ毎日飲むようになった。

お酒の怖いところは、感覚が麻痺するだけではなく、食欲の感覚もおかしくなってくるというところだ。

お酒を飲む時、コンビニやスーパーの惣菜とカップラーメン、菓子パンなども欲しくなり、気づくとかなりの量の食事をとっていた。

お酒自体も糖質とカロリーは高く、そんな生活を数ヶ月続けた結果、私の体重はあっという増えていった。体重が増えると、日常のちょっとした活動もしんどくなる。

晩酌と遅い時間の食事により、就寝時間もどんどん遅くなり、結果として睡眠不足に陥る。

この状態になるとかなりしんどく、翌日の日中はまともに過ごすのも難しくなる。

何も解決に向かわせることはできず、しんどいまま1日を過ごし、帰宅後に「今日もしんどかった…せめて夜だけは楽になりたい…」と、またいつものお酒と食事に逃げ道を求める。

悪循環でしかない。

何かをプラスに変えようとするならば、この悪循環から抜け出すことが何よりも重要である。

では、どうすれば抜け出せるのか?

私もまだ道半ばだが、今やっていることを書いておく。

このままではダメだと思ったその日、お酒を断つことを決めた。最初、週末だけは許容することにしていたが、平日我慢していた分も週末に飲むようになってしまい、週のスタートである月曜日のコンディションが最悪の状態になった。結果として平日もお酒に頼らざるを得なくなってしまった。

しばらくはお酒から距離を置く以外に道がないと思い、ノンアルコールビールに切り替える方法をとることにした。

この選択が私にはよかったようだ。いつも飲むのはキリンのオールフリーで、本数に制限は設けていないが、毎日2本程度で収まるようになっている。

グラスに氷をたっぷり入れて、その中にオールフリーを注いでキンキンの状態で飲むのだけれど、感覚だけはビールを飲んでいるのに近く、満足感もある。

1ヶ月以上が経過し、過ごしずつ変化が見られるようになってきた。

続きはまた別の投稿で書こうと思う。

ミッドライフクライシスからの脱却

私はミッドライフクライシスから脱却したい
なぜ、ミッドライフクライシスに陥ったのか?
原因は「自分という人間の喪失」

自分という人間がわからなくなった
何に喜びを感じる人間なのかがわからない
何をやりたいのかがわからない
何を求めているのかがわからない

自分の心の声と向き合わず、目の前にあることとなんとなく向き合って生きてきた結果
それは決して悪いことではなく、その頑張りによって積みあがったものがある
その積みあがったものは誇りに思ってよい

しかし「自分という人間の喪失」を感じ始めた今、その状態ではきっと長くは持たないことをなんとなく感じる
この苦しみは耐え難く、心と体を蝕んでいく

今こそ、改めて自分という人間と向き合うべき時だ
自分の価値観を明確にすべき時だ

最初にとるべきアプローチは二つ

一つ目は、自分を苦しめているものからの解放
「やらなければならないこと」「こうあるべき」と自分が考えていたものたち、それは本当に自分が望むものなのか?
周囲からの期待や要望に基づいたものになっていないか?
もしそれらによって自身が押しつぶされようとしているならば、きっと自分の望むものではないはず
自分の考え方を大きく転換する必要がある
この転換は、具体的にどうすれば実現できるのか

私自身、これから挑戦して見出してくことになるが
今やろうとしていることは、自分の中でなんとなく持っている「達成度合」を最低限度まで下げるということ
そこに自分の意思があるかないかは別として、目の前にあるあらゆることに対して、こうすべきだというハードルが勝手に出来上がっていたように思う
自分がそれを本当に「生きる上で必要なこと」と感じていないなら、時間とエネルギーをとられてはならないということを
私は理解する必要があるのかもしれない

二つ目は、自分の心の声に耳を傾けること これが非常に難しい
どうすれば自分が押し殺していたかもしれない思いを見つけることができるのか
こちらも試行錯誤になるが、心のアンテナをどこまで張り、拾ってあげられるかだと思う
自分の中で腹落ちした「こうしたい」「こうありたい」をどこまで見つけられるか そのために何ができるか

自分がぼんやりと持っていたはずの「こうしたい」「こうありたい」を思い出すこと
自分がまだ知らない新しい「こうしたい」「こうありたい」に出会うこと

この両方の活動を行っていけば、何か見えるかもしれない
また、大事なのは「考える」だけでとどめず、実際に行動に移してみること

少しでやってみたいと「こうしたい」「こうありたい」と思ったことは、それに向けた具体的な一歩を踏み出すこと
その際、できるかどうか、そこにたどり着けるかどうかという不安やリスクに対しては考えをめぐらさないことと、手間を惜しまないことが重要だ

・自分を苦しめているものからの解放
・自分の心の声に耳を傾けること

この二つの実現に向けて、今日から新しい一歩を踏み出していく